人間教育
北海道千歳の村上進学塾が開催した講演会に、岡山から参加している塾経営者がいた。この人は、村上進学塾の村上塾長と同じ志をもって、塾の経営に当たっている。村上さんも熱い志に燃えていたが、この人もまた、子供たちの人間教育に対しては、激しい情熱を燃やしてぶつかっている。私と同じホテルに宿泊されていたので、朝食を共にした。そして、塾における人間教育の具体的な話を色々と聞かせてもらった。
そのひとつ。「私の塾に、事故のために片腕を無くした子供さんが通っていました。お母さんから、車で塾に通わせても良いかと相談を受けた時、私は、自転車で通うように勧めました。片手で自転車を運転するのは危ないのではないかとお母さんは心配されましたが、私は、十分ほどの距離だし、自転車にしてくださいと言いました。その子が、ある時、自転車の運転を誤って、道端の水溜りに落ちてしまいました。他の子供たちが、私のところにそのことを知らせに走ってきました。そして、先生、早く助けてあげてと頼みました。私は様子を聞いていて、命には別状ないことを知り、助けなくてもよいと言ったのです。生徒たちは、どうして助けないのだと私に詰め寄りました。しかし、私は助けなかった」。そんな話を持ち出された。私は、助けなかった先生の気持ちがわかるので、思わず話の続きに耳を傾けた。
「その子は、泥にまみれながら、自転車を担ぎ上げました。片手ですから、自転車を持つことさえ容易ではありませんでした。やっとのことで這い上がってきた時、その子もまた、どうして助けてくれなかったのかと私を責めました。私は言いました。君を助けることは簡単だ。しかし、君はこれから一生、片手で生きていかなければならない。今日のような困難なことが一杯目の前に立ちはだかることだろう。その時に、人に頼るのではなく、自分で何とか解決することが求められる。私は、君が片手のハンディキャップに負けずに、自分で這い上がるような人間なって欲しい」。
私はその話を聞きながら、本当の教育のあり方を学ぶ気がした。生きる力を与えることこそ、本当の教育なのだと、改めて納得した次第である。
片手の子供が自転車から転落して、困っている時、助けることがはたして本当に良いことだろうか。世間は、助けることをもって、美談とする。
しかし、本当にそのこの将来を考えた時、助けないことのほうがより望ましいこともあることを、教育するものは知るべきだろう。人の援助の手を差し伸べることにより、人の自立心を奪うとしたら、援助は偽善のそしりを免れない。美談は、しばしば、偽善の仮面をかぶっているものだ。