江戸時代の古地図
江戸時代の古地図を片手に歩ける町は、日本中探しても、そんなに多くないはずだ。戦災に遭った町も多い。バブルに浮かれて、再開発した町も少なくない。一部分に昔の建物が残っていたりするが、町全体が昔のままとなると、極めてまれである。山口県萩市は、そのまれな町の一つである。萩の町は、江戸時代の古地図が未だに使える。
「萩の町は、みんなで努力して、古い町並みを残したのではないのです。萩の町は、昔のまま取り残されてしまったのです」と言うのは、幕末から維新に掛けての歴史研究家である一坂太郎さん。「毛利藩の城下町であった萩が、そのまま県庁の所在地になっていたら、萩の町の様相は一本していたことでしょう。他県の県庁所在地は、ほとんどが昔の藩主の館やお城があった所です。萩のように、お城がありながら、県庁が他の場所に移ったケースはまれです。それほど萩は、不便で、三方を山に囲まれ、川の氾濫ばかりが起きる逆境の土地だった証拠でしょう」と、一坂さんは説明を続ける。『青年塾』萩・下関講座での講話での話である。
吉田松陰の生誕地は、萩の町全体を見渡すことができる高台にある。そこから見る萩の町は、高い建物など、数えるほどしかない。ホテルかマンションぐらいだ。それも、せいぜい十階程度の高さまで、上に伸びると言うよりは、静かに横に伸びている町と言った印象である。
明治維新に成功して、長州藩はそのまま山口県となった。「戊辰戦争に勝ち、明治政府の中枢を担ったのは、ほとんどが長州人。そのために、自分達の藩をそのまま県にしたとの説もあります。そう言われてみると、鹿児島県は薩摩藩そのまま、高知県は土佐藩そのまま。一方、戊辰戦争に負けた藩は、まるで解体されたようにばらばらにされてしましまいました。長州藩が山口県になると同時に、県庁の所在地は今の山口市に移りました。殿様は、長府に立派な邸宅を建てて、そそくさと萩を後にしました。要するに、萩は見捨てられた格好になってしまいました」。一坂さんの説明は、明快であり、興味深い。
関が原の戦いに敗れて、百二十万石の大大名であった長州藩は、お家取り潰しの運命にあった。徳川家康を何とかなだめてくれる人がいて、長州藩は生き延びた。しかし、山陽道沿いにも、あるいはそれに近い所にも城を造ることは許されなかった。泣く泣く封じ込められたのが、現在の萩。もともと湿地帯で人の住む所ではなかった。だから、新政府になって、早々と萩を見捨てたというわけだ。お陰で、萩は古い町並みを残せたのだ。来年は、江戸時代の古地図片手に萩を歩くことにしたい。