東北関東大震災 第2陣支援部隊活動報告(石川一機)
まずは投稿するにあたりまして、震災に遭われました皆様に心よりお見舞い申し上げます。
3月11日震災の発生後、関西クラスの有志が高萩市への救援行動を起した頃に一本の電話が鳴りました。相手は普段から仲良くしている渋谷さん@3期生でした。「今回の地震の件で被災地への支援を計画している、ついては手伝って欲しい」との事でありました。たまたま現在は無職である立場、お金は無いが時間を使えるので手伝える範囲、積極的に応援しようと決めました。
その後、渋谷さん@3期生から仙台に在住の高瀬さん@9期生や杉井さん@6期生が既に個々に動かれていることや、支援物資の募集受入れ準備や現地入りの為に高津東クラス塾頭@3期生を始め、名取さん、鎌形さんといった東クラス各期の主な方々も加わって支援体制の段取りを行い、3月22日に支援物資募集開始、25日仕分けを行いそのまま積込み夜出発。26日より27日にかけ物資を配送し、そのまま帰ってくるというという計画となりました。まあ、普通に行って帰ってくるのは簡単ですが報道でも有るように燃料事情が極めて悪く、下手をすると現地へ行っても帰る事も出来ない状況も生まれる可能性がある中で、現地の事情をよく知る高瀬さん@9期生が「高瀬部隊」が主にガソリン、灯油などの燃料の手配と配送を担当、私石川が全国から集まった支援物資を積み込みトラックで送り届ける「石川部隊」という形になりました。
【想い荷物】
22日に物資を募集して25日にまでに果たしてどれくらい集まるだろうか?」と単純に心配していましたが25日になってその心配は全く無くなる位に青年塾生をはじめ、本当に多く方からの支援物資を預かる事が出来ました。そして25日は昼からに支援物資の集積地である渋谷さん@3期生の会社で持っている倉庫で食糧、燃料、日用品、衣料品等仕分をする。まあ仕分けをするにも人の手が必要、ここでもこの仕分けの為だけに多くの塾生や渋谷さんのご家族等総員約20名が参加してくれてそしてトラックへ積込み、東京町田を18時30分、出発致しました。今まで仕事でも「重い荷物」は運んだ事は有っても、これだけ心のこもった「想い荷物」を運ぶのは初めて、絶対に何があっても事故は許されないと決めて、進路を北へと取りました。
【北へ】
町田を出発して今回一緒にドライバーとして参加くださった富士見さん@6期生と目黒で合流、富士見さんもお仕事柄、気仙沼市と深い関係にあり「忙しい時期ではあるけれども直接現地へ乗り込みたい。」と同僚のからも託された支援物資を持ち込んで参加くださいました。
そして東北道を北上、北へ向かう車は、多くの災害復旧支援の車両を目にする。また人員交代であろうか東京方面へ上る反対車線も自衛隊や警察、消防の車も多く見かけた。そんな最中、また一つ心配すべき事が発生した。「白河からチェーン規制」の交通情報表示、実はこのトラックはチェーンは積んでいてもタイヤは雪用ではなくノーマルタイヤ。チェーンを装着する事自体は大したことは無いが、チェーンを装着する事によってスピードが上げられずその後のスケジュールにも支障が出る、それ以前にたとえチェーン規制が無くても部分的に積雪もしくは凍結していてそれが原因でスリップ事故を起こせばすべて水の泡となる、燃料調達の為に先発していた「高瀬部隊」から情報をもらいながら宇都宮、那須、そして白河、どうやらチェーン規制がタイミングよく解除されそのまま難なく通過することが出来た、しかしまだ雪は降り続いており気を緩める事無く郡山、福島と続き無事にその日の目的地であった仙台の高瀬さんの自宅へ無事到着となりました。
【本格行動一日目】
高瀬さん宅で数時間仮眠後の翌朝8時に仙台を出発、仙台市内でもガソリンスタンドへ車が100台や200台並んでいる姿を目にする、その長さは1キロや2キロは普通であって、それ以上でも珍しい事ではなかった。燃料事情の劣悪さを痛感した光景であった。仙台を後にし岩手の花巻にへ行き戸田さん@2期生のお宅で荒井さん@7期生と合流し、ここで今後の行動について作戦会議、「高瀬部隊」と「石川部隊」と2班に別れ、高瀬部隊は村上さん@10期生が居られる大船渡へ、石川部隊は被災地の一つ釜石へと行く事になった。
花巻から釜石までは山間部を通るルート、しかも雪が降っておりここでもスリップ事故の心配をする事となったが、それでも慎重に慎重を重ねた結果無事に釜石へ到着、物資を受付けつけている本部へ向かい、灯油、食糧、日用品などを降ろす。衣類などは別の場所での受付、どうやらニーズが刻々と変化しており、釜石では衣類などの布製品は2次的必需品となっていたようだ。受付所の地元の方々からは「本当に有難うございます、今回の事で人の温かさを身に染みて感じております。」と語る姿は一切建前など無く真剣にお話されるその面持ちは逆に我々が大変勇気付けられました。釜石を後しに花巻へ戻り、「高瀬部隊」は大船渡から一度花巻へ、そしてアーク牧場へと向かっていた。
花巻では仙台以上に燃料事情が悪にのにも関わらず、戸田さん@2期生が普段からお付き合いが深いガソリンスタンドへお願いして頂いた事でトラックの燃料を満タン、更に自前の燃料缶への給油と格別の対応をして頂いた事でこのトラックにおいては燃料の心配はだいぶ軽減できた。
その後、アーク牧場へ行っていた「高瀬部隊」と「石川部隊」は岩手の前沢で合流、一関にトラックを駐車し、高瀬部隊のワゴン車にてこの日我々物流部隊を受入れて下さる山形村山にいられる川又さん@14期生のお宅へと向かった。
【山形村山市、川又さん宅】
ここでお気付きになった方も多いかもしれませんが岩手一関から山形の村山市まではかなりの距離がある、ざっと100キロ。なぜかというとか燃料担当の高瀬さんが事前に新潟など日本海側の比較的燃料事情が良い所に住んでいる青年塾生に声をかけ、灯油をかき集め、ここ川又さん宅へ集積し中継するためであった。
しかし、中継だけに止まらず、川又さんにはご一家総出で迎え入れて下さり、おいしいお酒と名物いも煮、暖かな布団を振舞って頂き、ハードなスケジュールの物流部隊もこの晩はとても落ち着く事の出来る夜を過ごす事が出来ました。川又さん、有難うございました。
【本格行動日二日目】
翌朝、川又さん家を後にしトラックの置いてある一関へと戻り、そこから気仙沼とへ行きました。気仙沼へは雪の心配も無く、無事に到着、熊谷さん@志ネットワークのお宅へ行き、そこでネットワーク関係者の物資を下ろし、そして気仙沼市役所へ行き、支援物資を下ろす。
その際に、気仙沼市の副市長さんや市役所の方々とお会いでき、お話を伺う事が出来ました。「これまで防災、津波対策という事で長年やって来たが、なんの役にも立たなかった。」と話されていた事が印象的、それほどまでに凄まじい津波が押し寄せたのだと感じた。事実この後「高瀬部隊」と別れ石巻へ向かう際に、その散々たる光景を目にする事となる。
一言で言えば「意味がわからない、訳が分からない」光景、津波が押し寄せた海水とヘドロ覆い尽しその匂いは何とも言えない強烈そのものであった。市街地はまるで巨大な万力で潰されたの如く家、商店はメチャメチャになっており道路の真ん中に巨大な船が鎮座している。海から遠く離れた陸地には打ち上げられた魚の死骸があり、鉄道はレール、砂利は流され枕木は宙に浮いているなどしていたり、郊外でも直接津波に襲われた壊滅的な所はすべて瓦礫の山、いや瓦礫の丘、瓦礫の原野と言ったほうが言葉が正しいくらい破壊されており、残っていても家のコンクリートの基礎だけであったりと「言葉を失う」とはまさにこの事でありました。唖然としながら、気仙沼を後にし国道を南下し、三陸道へ経て最終目的地である石巻へ入った。
石巻市街地は気仙沼や釜石に比べ、街の規模も大きくまた海抜も低い土地が多いせいか津波による被害が広範囲だと感じた。そんな街中を抜けて平塚さん@1期生の自宅へと到着しました。
平塚さんのご自宅は旧北上川の近くの河口から5キロほど遡ったところに有り津波発生当時は平塚さんは会社におられ、地震発生と同時に全員退社させ、ご自身は一目散へ自宅へ戻り2階に退避して難を逃れたそうですが、奥様は自宅へ到着する100m手前で津波に遭い、そのまま3日間行方不明だったそうですが、自力で戻られ助かったそうです。自宅の1階部分は完全に水没し、土砂が流れ込み、ご自身が使用されていたご家族の車も流され横転し、持ち主の判らない高級外車も流れ着いて、果ては生々しくてここでは話せないものまで流れ付いていたそうです。それらを物語る様に僕らが着いたときも長靴無しので歩くのは困難と思える程に辺りは土砂や瓦礫で覆われていました。
そして物資を降ろし、27日18時石巻を出発し、28日2時にトラックの返却先である東京町田にある渋谷さん@3期生の会社の倉庫へ到着し、帰路へとたどり着きました。
【振り返って】
現地へ行き被災地のそこでは大変厳しい生活を強いられているのを目の当たりにしつつも、東北の方々のお人柄であろうか、不満をこぼす人の声はほとんど聞く事も無く今を必死に耐えて頑張り、そして時間はかかっても前向きに復興というその姿がどうも宮沢賢治の「雨にもマケズ」の詩と重なり、救援物資を運んで応援しようとしたはずの我々の方が逆に何倍も励まされ、勇気付かされ、応援された様な感じでありましたし、そう思うと感動して涙が止まりませんでした。
最後に今回現地へ行くにあたり、各々が出来る事を出来る範囲で持ち寄り、協力し、行動した事が私たち現地物流部隊が無事に行って無事に帰って来れたのだと痛感して思いますし、こうやって「いざ」という時に団結して組織的に行動できる仲間が身近にいるという事が幸せだとあたらめて感じました。関わってくださったすべての皆様、本当に有難うございました。