三浦光世さんの話

上甲 晃/ 2000年10月09日/ デイリーメッセージ

『青年塾』北海道講座は、年々、参加者が増えてきている。今年は、観光バス一台には乗り切れないほど多数の塾生諸君が参加してくれた。年間でもいちばんの観光シーズンだけに、航空券の確保もままにならない。それにもかかわらず、60人を越える諸君が参加してくれた。

北海道講座のひとつの魅力は、やはり、作家・故三浦綾子さんの夫である三浦光世さんとお会いできることにあるようだ。とりわけ昨年は劇的であった。三浦光世さんが、私たちの『青年塾』でお話していただいた翌日、三浦綾子さんは召された。当時、すべての対外的な活動を断られて、唯一『青年塾』で講話いただくことだけが、光世さんの予定であった。そのたったひとつの約束を果たしていただいた翌日、綾子さんはなくなられた。私たちは、激しいショックを受けた。光世さんが、どれほどの犠牲を払って出掛けていただいたかと思うと、心が痛むばかりであった。

それからちょうど一年。再び、光世さんは出掛けていただいた。もう、綾子さんはこの世にない。それを思うだけでも、私には、深い悲しみと愛惜の情が沸き上がる。今までなら、「綾子、若い人たちに話してきたよ」と留守番の綾子さんに報告してこられたかもしれない。今は、それもかなわない。誰もいない家に、一人で淋しく帰って行かれるのだ。そんな光景を頭に浮かべていた私に、光世さんは、きわめて静かに、温かく、そして心をこめて話していただいた。

光世さんの話には不思議な力がある。私のように、めいっぱいの力をこめて話すようなことはない。淡々と、静かに、訥訥と話される。問題意識のない人が聞けば、睡魔に襲われそうな調子である。ところが、話のあとに、深い愛と情感が残るのだ。そして、心のなかいっぱいに、人を愛する心が高じてくる。信仰心であろう。とにかく、印象深い話をされるのである。「愛情深い人」、三浦光世さんは、稀なる心の温かい人のようだ。

この日は、三浦綾子さんの作品に自分がどのようにかかわってきたかを話された。内容は、終始、謙虚で、しかも正直であった。「私が書いてほしいと頼んだ小説は、ふたつ。十勝岳の大爆発で何の罪もない村人が火山流のために多数亡くなった事件、そして警察で拷問死した共産主義者の小林多喜二。最初は、妻もなかなか承知してくれませんでした。そして、もうひとつは、朝日新聞の懸賞小説で特選に選ばれた”氷点”のなかに、洞爺丸が台風のために転覆したとき、二人の西欧人宣教師が、自分の命を犠牲にして、自分の持っていた浮き輪を譲ったことを入れることでした」。光世さんは、綾子さんの作品においても、愛情深い助言者であったのだ。

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