みかん山復活大作戦
妻の叔父が亡くなったために、淡路島に出かけた。葬儀の後、久しぶりに妻の実家に泊まった。夜半、妻の母とその弟が弔いの会合を終えて、帰ってきた。義母の弟は、淡路島の南、太平洋に面した斜面で、長年、ビワとみかんと花の栽培をしてきた。既に年齢は七十を越しているが、農家としては現役である。ただ、肉体的に負担のかかる仕事をへらしつつある。今は、花の栽培がほとんど。みかんやビワは、自家用以外ほとんど作っていない。
「あのみかん畑はどうしているの?」と、私は質問した。「もう捨てた」との答え。「捨てた?」。あまりにも生々しい答えに、私は聞き返した。その人は、みかんの栽培を捨てたので、今まで丹精こめてきたみかん畑がどんどんと普通の山になりつつあると説明してくれた。
淡路島のみかんは、日本一うまいと、私は思い込んできた。静岡の三ケ日みかんは、今、日本一おいしいとも言われる。しかし、私は、淡路島のみかんはそれに勝るとも劣らないと思ってきた。そのおいしいみかんが、生産されなくなっていくことに、限りない寂しさと切なさを感じた。
話の途中で、ふとひらめいた。「そのみかん畑を私たち素人の力で復活できませんかね」と、とんでもない提案をした。「あなたのみかん畑を貸してくれませんか。私が、会員を募集して、あなたの指導を受けながら、私たちの力でみかん畑をよみがえらせるのです。私たちは、家族ぐるみで、淡路島に通い、あなたの指導によってみかん畑を手入れします」。私は、アルコールの力も借りて、勢い込んで迫った。
農家の人は、私のような軽薄者の提案をすぐには承諾しない。「素人には難しいよ」とか、「手間のかかる作業もあるし」とか、「継続できないことには」などと、私の頭から冷たい水をかける。私はそのたびに、「承知の上」と言いながら、さらに強く迫った。「いい考えだと思いませんか。この作戦に取り組めば、都会の人達が農業の経験もできるし、子供のためにも自然に親しみながら農業の体験ができるいい機会になりますよ」と一歩も引かなかった。
酒の上の話は、翌日、頭を冷やしてからもう一度考え直すことにしている。しかし、この話は、正気に戻っても、さめなかった。早速、これから志ネットワークの会員と青年塾の塾生諸君を対象にして、会員募集をすることにした。淡路島は、橋ができてから、大阪から二時間、神戸からは一時間あまりで行ける。週末に通うのに、それほど難儀しない。自分たちで復活したみかん畑のみかんを食べられる日を、早くも夢見ている。