ホームステイ物語

上甲 晃/ 2004年05月01日/ デイリーメッセージ

ホームステイ物語(1)

八年目の初体験。バングデシュの農村でホームステイである。同じホームステイをするのなら、あえて一つの条件をつけることにした。「電気のない家に滞在したい」。現地では、「電気がきている家を希望する人は多いが、初めから、電気のきていない家を希望する人は珍しいと、驚かれた。闇を忘れた日本人。私もまた、いつのころか、本当の闇を忘れてしまったような気がする。もう一度、闇を経験したい、そんな思いから、電気のきていない家に滞在することを希望した次第である。

夜の帳(とばり)が降りると共に、満天の星が、地上に舞い降りてきたのではないかと錯覚した。椰子の林に、星のように蛍が乱舞しているのだ。真っ暗闇にシルエットだけが黒々と伸びる椰子の木の間からは、雲ひとつない空に明るく輝く星がひときわ大きく見える。そして、椰子の木の足元には、無数の蛍が点滅しながら、飛び交っているのだ。これはもう、夢幻の世界だ。空にまたたく星と足元を飛び交う蛍が、まるで同じもののように調和し、共鳴し、天と地を行き交うようだ。

ホームステイした家の前には、小さな池がある。池の向こうには、収穫期を迎えた稲が、穂を垂れている。池にも、田んぼにも、蛍が舞い踊っている。ホームステイした先の家の子供達が、簡単に蛍を捕まえてきては、私の手のひらに乗せてくれる。私は、手のひらを空に向けて伸ばす。蛍が、空の星に帰っていくかのように、高く舞い上がる。

この辺りには、まだ電気がきていない。私は久しぶりに、夕闇から闇へと移り変わっていく世界に身をおいた。開発などとはまったく無縁の田舎は、緑一色の世界だ。あふれるような緑の世界の上に夕日が赤々と最後の輝きを見せてくれる。野良仕事をしていた人たちが、村に向かって家路を急ぐ風景さえ、私の胸を熱くする。もはや日本の農村にはない光景だ。夕闇が迫る切なさを、懐かしく思い出した。さっきまで鮮明に見えていたみんなの顔が、段々と区別できなくなる。

やがて村が闇に包まれると、家々に頼りげなく、ランプが点(とも)る。あちこちから、まるでお経を唱えているような声が聞こえてくる。「あれは何?」と質問したら、「勉強しているのだ」とのこと。窓ガラスなどない家の窓際に近づくと、高校生の娘が、本を朗読している。「何の本?」と質問したら、「経済」と返事が返ってきた。ランプの明かりだけを頼りにして、朗々と本を読む姿は、日本では歴史的風景である。村の中を少し歩いてみた。どこの窓にも、背筋を伸ばして、ランプの光の下で本を読む子供達が居る。どの風景も、子供のころの原風景だ。

ホームステイ物語(2)        

レンガを積み上げて、その上からセメントを張る。それがバングラデシュの家作りだ。とりわけ田舎に行くと、家と言うよりは、土蔵の雰囲気がある。暑い国だから、外の暑さから守るために、壁が厚いのだろう。一日の終わり、わずらわしいほどの人との付き合いから離れて、私にあてがわれた部屋の扉を閉めた。夜の十時を過ぎている。曲がりなりにも、れっきとした個室である。私は、部屋の真中、壁際に置かれているソファーに腰をかけた。ランプが唯一の明かり。 ランプの光が、部屋を照らす。馬小屋にしか見えない独立した部屋も、入り口の扉を閉めると、哲学的空間に様変わりする。文明と名のつくような道具類は、何もない。私が向かっているパソコンが、きわめて違和感をかもし出す。

今や、求めようとして求められない暮らしの空間である。片隅に簡素なベットが置かれている。昼間、ベッドに横たわっていると、開いた窓から子供が覗き込んでいた。そのガラスがはめられていない窓も、今は閉められて、大きなかんぬきがかけられている。ランプの光が、思いのほか、明るい。周りが真っ暗だと、こんな弱々しいランプさえも、強い光を放つのだ。

ベッドに横たわった。クッションがないから、板の間の上に身を置いた感触である。最近愛用している簡易の寝袋をベッドの上に敷く。寝袋と言っても、布地を袋状にしてだけのものである。これさえあれば、世界中、どんな場所でも寝ることができる。作家の曽野綾子さんから、「風呂敷き一枚あれば、どこでも眠れる」と教えてもらったことがある。それにヒントを得て購入した簡易の寝袋が、ここで強力な味方だ。

ランプの明かりを最小限に絞る。か細い光が、部屋全体にやっと届いている。天井に張ってある赤い布、曲がっている額、破れている地図、セメント壁のごつごつとした凹凸が浮き上がる。外からの光などまったくない。牛が、一鳴きする。いつのまにか私も眠りに落ちた。

村の朝もまた、動物の鳴き声から始まる。鳥の鳴き声に目がさめた。か細いランプリ明かりを頼りに、時計を見た。四時だ。しばらくすると、私の寝ている小屋の周りをアヒルが、鳴き声を立てながら、せわしなく動き回る。四時半を過ぎると、モスクからお祈りの時間を知らせる声が辺り一帯に響き渡る。かんぬきを外して、外を見た。まだ、真っ暗だ。再びベッドに横たわる。周りの音が、輻輳して、大きくなる。人間も動物も活動を開始している。とても寝ている場合ではない。簡易の寝袋をたたみ。窓や戸を開けた。ホームステイ先の人たちは起きだして、歯を磨いている。太陽と共に眠り、太陽と共に起き上がる生活の始まりだ。

ホームステイ物語(3)
        
月がこんなにも明るかったことを、すっかり忘れていたようだ。

電気のきていない村では、夜の訪れは、休みの時を告げる。田んぼの遥か向こうに、三つの明かりがある。電気がきている隣の村の明かりである。家々の窓からわずかにもれるランプの明かりを除けば、隣村の三つの明かり以外は、すべて闇である。行き交う車のヘッドライトもない。子供のころ、こんな闇を見たことがある。「鼻をつままれてもわからない闇」、そんな言葉を聞いた記憶もよみがえった。

今、日本には闇がない。どこにいても、光がある。すべての電気を消してある我家でも、携帯電話を充電する明かり、ビデオの時計をはじめ、いろいろなものが光を出している。外からは、街頭の明かりも入ってくる。車が通るたびに、ヘッドライトの光が侵入する。大自然の中に身を置いたときでさえ、頭の上を飛ぶ飛行機が明かりを点滅さえ、遥かかなたの人里の明かりが見える。「闇が消えた日本」を、真っ暗闇のバングラデシュの田舎に来て。実感した。

中庭に出ると、雪が降ったのではないかと見間違うほど、回りは白の世界である。スレ
ートを敷いただけの屋根の白さが、雪を連想させる。庭も明るい。月の光がこれほどの明るさをもって、周囲を照らしていたこともすっかり忘れていた。日本では、月の存在感がすっかりなくなってしまっている。月の光を頼りにして生活することなど、もう記憶にない。

この日の月は、満月ではない。半分ほどは欠けている。それでも、この明るさだ。月の明かりが回りを照らし出す中で、人々は、語らう。私には、話の内容など理解できるはずはない。それでも、月の下での会話がなんとも穏やかで、神秘的な感じさえ与えてくれるのが不思議だ。月明かりが、人々の心に何かを届けているのだろう。そう言えば、私の子供のころにもこんな光景があったように思う。遠くからでは見分けのつかない人が、月の明かりのおかげで、そばに来て見分けられた喜び。月空の下でのひそひそとした話が、あたりをはばかるように響いていた。

月は森を静まり返らせ、田畑を明るく浮かび上がらせる。私は、何度も中庭や池の辺に立った。そのたびに、ホームステイ先の家人が気を使って私に寄ってくるので、一人で静かに月が照らす世界をさまようことはできない。それでも、中空に月が差し掛かった時の明るさは、驚きだ。あれほど飛び交っていた蛍も、どこかに消えている。満天の星も、影が薄い。月に照らされて自分の影が伸びる。子供のころ、゛影踏み゛遊びをしたことをふと思い出した。

この記事をシェアする