『青年塾』第八期生の入塾式前日、ほとんどの塾生が岐阜県瑞浪市の郊外にある広池学園の生涯学習センターに集まった。山の起伏を巧みに生かしたこの生涯学習センターは、今を盛りと桜の花が満開である。空は一点の雲もないほど、青い。入塾式にはうってつけの場所であり、季節である。研修センターの宿泊室のベランダに出ると、下手な観光地のホテルも顔負けするほど、山間のすばらしい景色が楽しめる。
この日、午後二時から、入塾式前の行事が行われた。私が三十分ほど話をした後は、恒例の自己紹介である。何事も、゛延々゛をモットーとする『青年塾』では、自己紹介も゛延々゛と行う。一人一分かけても、二時間近くはかかる。そんなことは問題外。一人一人を少しでも良く知ることが目的であるから、効率的であることはまったく考えない。私は、名簿を片手に、一人一人の自己紹介する内容のポイントを書きとどめていった。
昨年から、新入塾生の自己紹介には、書初め方式が導入された。すなわち、その年のテーマに則して、自らのもっともふさわしいと思う言葉を書いてきて、みんなに紹介するのだ。今年のテーマは、『感動』。様式は自由である。だから、ノートの切れ端のような紙に書いてくる人もいれば、堂々たる紙に黒々とした太い字で力強く書いてくる人もいる。中には、立体方式でみんなを喜ばせる人もいるし、写真入りも登場する。
それぞれ個性的な内容の発表ではあるが、いくつかの共通した言葉があった。例えば、「出産」、「命」、「出会い」、「笑顔」、「誕生」などは、複数の人達から出た。
その発表を聞いていた先輩の塾生の一人が、「ちょっと気になるのは、家庭的で、自分の子供のことなどがほとんどだったこと。もちろん、それが悪いというのではないのですが、少しさびしい気がしますね」と言う。感動の世界が、小市民的空間に留まっているのが物足りないと言うわけだ。そう指摘されると、天下国家や社会的なことで感動したと紹介した人はほとんどいなかったことに気が付いた。最近の青年は、尊敬する人は家族、感動は家族にちなむことというケースが圧倒的だ。
私は、「だからこそ、『青年塾』は歴史を学び、時事用語を研究し、志の人を探求するのだ。スタートの時にはまことに小市民的であった塾生達が、一年間かけて、天下国家に思いを馳せられるように成長するのが楽しみだ」と答えた。日本の青年は、私の若かったころに比べると、はるかに家庭的である。それは悪いことではない。しかし、その範囲にだけ留まっているのは、日本の未来を思うにつけ、問題であろう。