松下幸之助の教え
ゴールデンウイークを利用して、佐賀・有田の陶器市を訪ねた。そして、石川慶藏さんと出会った。石川さんは、松下電器に入社後、PHP研究所に配属され、31年間勤務した。その間、松下幸之助に直接薫陶を受けた。私は、石川さんの経験に自らの経験を重ね合わせ、初対面にもかかわらず、非常な親しみを覚えた。この日、初めて会ったはずなのに、かつて、何度も会ったことのある人のような懐かしい思いがしたのだ。
有田市内にある、石川さんが副社長を務める佐賀ダンボール商会は、有田焼を梱包するケースを作ることが本業である。平成13年、妻の実家の家庭事情から、松下電器を退社して、現在の仕事に携わった。時あたかも、有田焼は、大逆境の中にあった。最盛期の3分の1に落ち込み、産地には先行きへの絶望感が漂っていた。
実家の仕事をする時、妻の母は、「松下幸之助さんの理念や言葉を、この地では語ってはならない」と釘を差した。絶望の淵に沈む産地にとって、松下幸之助の存在は、余りにも縁が遠い。いきなり松下幸之助のことを話せば話すほど、石川さんが地域から浮いてしまうという義母の心配からだ。石川さんは、義母の言葉を忠実に守り、有田では、松下幸之助のことを人前で話すことはなかった。
しかし、仕事に取り組むに際しては、徹底して松下幸之助の教えに従った。まず、「大不況は、大発展のチャンス」という松下幸之助の教えが頭に浮かんだ。石川さんが有田で仕事を始めたころ、有田焼は最盛期の三分の一ほどの規模に落ち込んでいた。産地には絶望感が漂い、人々は将来に対する希望、夢をすっかりとなくしていた。
石川さんは、松下幸之助の教えを思い起こした。「かつてない困難は、かつてないチャンス」。そうか、有田焼がかつてない困難に遭遇しているということは、見方を変えれば、かつてないチャンスにあるのだ。しからば、どうすれば、この困難をチャンスに転じることができるのか。再び、松下幸之助の教えを思い起こした。「一人の知恵には限りうる。衆知を集めれば、道は開く」。そうか、多くの人の知恵を集めればいいのだ。石川さんは、松下幸之助の教えのとおりに実践した。箱屋が、箱屋の枠を飛び越えて、新しい分野に挑戦した。万華鏡は最初のヒット商品だ。石川さんの会社で、万華鏡を手にして、私はその魅力に取り付かれた。また、洞爺湖サミットで、各国のトップに贈られたお土産は、石川さんの手で完成した有田焼の万年筆。万華鏡、万年筆が、有田に新風を吹き込んだ。そして何よりも苦難にあえぐ産地に、希望の明かりをともした。