遠大なる計画
空海が開いた高野山は、今までの私にとって、近くて遠い存在であった。゛いつでも行ける所は、なかなか行かない所になる゛ようだ。私が住む泉北ニュータウンは、南海電車の難波駅から出ている高野線の支線にある。だから、支線で枝分かれせずに、そのまま終点まで乗れば、高野山に至る。だから高野山は、その気になればいつでも行ける所であったが、過去に一度しか行ったことがなかった。昨日から始まった『青年塾』関西クラスは、塾生諸君の希望により、初めて高野山の名刹である三昧院の宿坊で研修を行った。おかげで普段行く機会のなかった高野山に、何十年ぶりかに来ることができた。
まず、三昧院の住職である久利康影氏の話を聞かせてもらった。住職は、きわめてわかりやすく、高野山の由来を教えてくれた。「八百四年、空海は三十一歳で遣唐使として、中国に渡りました。その空海が、八百十六年、四十三歳で高野山を開きました」。今から千二百年前の話である。「当時、高野山は、うっそうとした原生林であり、じめじめとした湿地帯であったはずです」。そうだろう、今の高野山は、一つの町を成している。小学校、中学校、高等学校はもとより、大学まである。標高八百メートルの山の中には、商店街もあり、路線バスも走る。
私が驚嘆したのは、空海が、原生林を開きながら、植林に力を入れたことである。まず、杉を植えた。それから、檜。さらに、高野まき。高野山は、千年の歴史を通じて、植林を続けてきたのである。植林の目的は、建築資材の確保と経済基盤の確立のためである。私は、空海の展望の大きさ、広さ、長さに感心した。寺の規模が大きくなれば、当然、建築木材は必需品である。また、高野まきを植林したのは、お公家さんの棺おけ用の資材として重宝されたため、財政的に役立ったはずである。そればかりではない。空海は、人を育てることに力を入れるために、学校を建てた。その学校を建てる資金もまた、植林で得たお金から出ている。「木を育てて、学校をつくり、人を育てた」のだ。
空海は、遠大な志を持っていた。だからこそ、長大な展望と遠大な計画を持つことができたのだ。志が大きければ大きいほど、計画は大きく、展望もまた長期にわたることの証拠だ。目先の利益ばかりを追いかけていると、計画は小さく、短くなる。「その日暮し」に終始してしまうのだ。手前味噌かもしれないが、大きな志があるからこそ、遠大なる計画を立てられるのだ。日本が行き詰まるのも、国家にも、国民にも、志があまりないからではないだろうか。