藤村記念館

上甲 晃/ 2001年09月28日/ デイリーメッセージ

島崎藤村の記念館の中庭を見渡す一角に、一本の柿の木がある。志ネットワーク全国会議に参加した人たちは、三々五々、熟柿を一杯枝につけた木の下に集まっていた。藤村記念館の館長である小林昭一さんは、「この記念館を作ったのは、昭和22年です」と切り出した。

昭和22年といえば、敗戦直後である。私が小学校にあがったのが、昭和23年。ぼんやりとした記憶ではあるが、その当時の日本は本当に貧しかった。また、アメリカの支配下にあった日々でもあった。食べるにも事欠くときだと思えばいい。そんな、その日暮らしの貧しい中で、文学館を作ろうと志した人たちが居たことを知り、私は本当に驚いた。

小林さんは、当時の様子を語る。「村人がみんな勤労奉仕で、建物を建てました。もちろん、材料などの費用も自己調達です。子供たちは、背中に瓦を背負って、運んできました」。私は話を聞きながら、想像たくましくした。当時は、現代の飽食時代からは想像もつかないほどひもじかったはずだ。そのひもじさにもめげずに、自らの労力を差し出して、飯の種にはならない記念館の建設に汗を流している人たちの様子が目に浮かんでくる。

今、地域起こしの一環として、文学館や記念館の全国的なブームである。全国各地に、有り余るほどの文学館や記念館が建てられている。中には、内容の充実したものもあるが、多くは、建物ばかりが立派で、中身の乏しい。安直な地域起こしの動機に、腹の立つことさえある。それと比べて、藤村記念館は、まことに志高いと思う。

ちなみに、藤村記念館の運営は、独立採算である。自分たちの思いで記念館を建て、自分たちの責任で運営する。当たり前のことでありながら、まぶしいほど立派に見えるのは、昨今のこの国の精神的な衰退がはなはだしいからであろうか。志ネットワークの会員の一人が、館長をつかまえて、「記念館の掃除は行き届いていますね。隅から隅まで、端から端まで、実にきれいに磨き上げられていました」と感想を伝えていた。心をこめた運営が行われている証拠であろう。

館長に、藤村記念館を建設するきっかけを聞いてみた。「戦争中に、英文学者の菊地重三郎氏がこの地に疎開していました。菊地氏が、村人に島崎藤村の偉大さを語り、功績をみんなでたたえるような記念館を作ろうと呼びかけた結果です」とのこと。夜明け前の舞台になった村の人たちは、さすがに見上げた精神の持ち主たちだったのだ。

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