士風頽廃

上甲 晃/ 2003年11月01日/ デイリーメッセージ

『青年塾』山形・庄内講座。かつて、志高く生きた庄内藩士たちの生きざまに学ぶことが講座の目的の一つである。庄内藩は、日本海岸に面した山形県の鶴岡市や酒田市一帯に広がっていた。元和八年、千六百二十二年、徳川四天王の一人である酒井忠次を祖として、明治時代に至るまで酒井氏がこの藩を治めていたのである。

庄内藩は、幕末、戊辰戦争に敗れた。その戦いぶりの勇ましさは定評があり、また実際に強かった。東北の雄藩がつぎづきに負けていく中で、最後まで闘ったのは庄内藩である。また、最後の最後まで、敵に自らの領地内に足を踏み入れさせなかったことも、今に語り継がれる強さの現れであった。しかし、庄内藩は、ただ単に戦いに強かっただけではない。その礼節の厚さもまた、つとに名高い。

例えば、庄内藩士たちは、どこの地においても、略奪行為をしなかった。当時、戦いの場において、略奪は日常茶飯であった。罪のない一般の人たちを襲い、食糧などを無理やり奪い取ることは、戦場の常識でさえあった。ところが、庄内藩士たちは、決して略奪をしなかった。そのために、庄内藩士たちは、敵地においても、「庄内さん」と尊敬の心を込めて呼ばれていたということだから、確かに立派だ。

また、敵側の死者を手厚く葬ったことでも有名である。敵側の死者をお寺に運び、自らお金を払って、供養をしてもらい、霊を慰めたとのことである。そのために、敵であるはずの秋田藩からは、庄内藩に対して、食糧の差し入れさえあった。私はそんなエピソードの一つ一つを聞きながら、改めて、庄内藩士たちの志の高さを学ぶ気がした。

庄内藩士達がどうしてそんなに志が高かったか、私はそこに一番関心をもった。致道博物館の館長であり、酒井家の次の当主である酒井忠久氏は、次のように答えてくれた。

「九代目の藩主であった酒井忠徳の時代、藩の財政の困窮と士風の頽廃というきわめて困難な状況に直面しました。そこで、忠徳は、この困難を打開していくためには、教育しかないと判断をして、『致道館』と名づけて藩校を創設しました。一番遠回りではあるが、人を育てることこそ国を立て直す根本であると考えたのです」。

どの時代も、どの国でも、またどの組織でも、人を育てることこそ、すべての基本であり、すべての出発点なのである。人間が仕事をする限り、人間を良くすること以外に、仕事を良くする道はないのである。ところが、私たちは、成果を急ぐあまり、時間のかかることに取り組めないのだ。

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