手
北海道家庭学校の日曜礼拝で聞いた、小田島校長先生の話は、なかなか良かった。窓という窓からは、黄色く染まった木々と、はらはらと散る葉っぱが鮮やかに見える。黒い詰襟の制服を着た子供達が、少しばかり背中を丸めながら、校長先生の話に耳を傾ける。校長先生の話がいささか理屈に走り、お説教調になると、子供達の背中は、たちまちのうちにさらに丸くなり、目を閉じる。校長先生の話が身近に感じられると、途端に、背筋が伸びて、視線が校長先生に向かう。
校長先生は、「手」の話を始めた。
「この間、みんなで、研修旅行に行きましたね。その時、サーカスを見ました。サーカスの人達とみんなが握手をしましたね。私もまた、若い女性と握手しました。きっと柔らかい、優しい手だと思って、手を出しました。ところが、それは大変たくましく、ごつごつとした手でした。サーカスの厳しい訓練に耐えた手は、優しくなかった。その時に、人間の生き方は、手に表れるとしみじみと感じました」。子供達は、校長先生と一緒にサーカスに行ったから、思わず話に身を乗り出す。
「諸君、君達の生き方は手に表れるのです。私はかつて大阪に住んでいました。友達が大阪に来るので、大阪駅まで迎えに行ったことがあります。友達を待っている間に、見知らぬ人が来て、私の手を見せろと言う。私は手を見せました。そして、職業は何かと聞きました。私は、教師ですと答えました。ところがその人は、嘘を付けと言う。教師がこんなごつごつとした手をするはずがないと言うのです。確かに、当時の私は、ある施設で、手にタコができるほど、激しい労働をしていました。それを見抜かれたのです。手に、自分の本当の姿が現れます。私が在職した施設に、スリの名人と言われる子がいました。その子の手は、か細く、すんなりとしていました」。校長先生がそんな話をすると、子供達は、そっと自分の手を見ているではないか。私には、忘れられない光景であった。
万一、彼らが、出来心から、スリをしたくなる衝動に駆られるかもしれない。その時、この日の校長先生の話を思い起こすと、ふと自らの手を見るかもしれない。教育とは、そのような効果を願うものではないだろうか。
畑を耕し続ければ、ごつごつとする手、スリを働けば透明感が増す手、手はその人の人生を表している。どの手が良い、悪い、そんな問題ではない。手に人生が表れると考えることが、大切なのである。私には、校長先生の話を聞きつつ、自らの手を見つめている子供達の姿が、忘れられなかった。そして、改めて、じっとわが手を見つめた。