松下幸之助の生誕日である。松下政経塾出身の卒業生諸君は、この日を覚えているのだろうかと、ふと思う。松下幸之助が亡くなったのは、平成元年四月二十七日である。まるで、昭和天皇の後を追うかのように、崩御の直後に、松下幸之助は九十四歳の生涯を閉じた。ちなみに美空ひばりが亡くなったのも、この年である。昭和の終わりを告げるかのように、昭和の代表的な人物が相次いで亡くなったのである。もし、松下幸之助が今も生きておれば、百九歳。「百二十歳まで生きるのだ」と口癖のように言っていた年齢に近づいている。
昨日、名古屋市内で、中部生産性本部の主催する研修会に出かけた。参加者は、二十七名。受講者の大半は、愛知県か岐阜県の企業から派遣された若い人たちである。中には、髪の毛をすっかりと染め抜いた若い人も混じっている。
私は心配になって。話を始める前に聞いてみた。「みなさんの中で、松下幸之助という人をいささかでも知っている人、手を挙げてくれませんか?」との質問をぶつけたのである。数こそ数えなかったものの、「知っている」と答えた人が、三分の二だ。あとの三分の一は、「そんな人知らない」と言う。とりわけ、髪の毛を染め抜いたような若い人たちは、「知らない」と答えた方にほとんどが入っている。
私も瞬間、戸惑った。私の話から松下幸之助を抜いたら、後に何が残るのたろうと思うと、話がとどこおる。話は、まず松下幸之助という人を紹介するところから始めなければならない。「松下幸之助は、小学校中退して働き始め、ついには現在の松下電器をつくった人です」。そんな説明をしながら、これではみんなぴんとこないだろうなと反省した。しかし、「経営の神様、商売の神様と呼ばれていました」と説明しても、「国民の間で大変に人気のある経営者でした」と説明しても、今ひとつ迫力がない。松下幸之助の名前さえ知らない人に向かって話す苦労を途端から味わった。
それだけではない。「松下政経塾という名前を知っている人」と質問を続けると、今度は、半分ほどしか手が挙がらない。私の話から、松下幸之助と松下政経塾を除いたら、後は壇を下りるしかないようだ。そこでいささかやけくそ気味に、「河合塾を知っている人」と聞いてみた。こちらの質問に対しては、全員が知っていると手を挙げた。
松下幸之助も没後十五年。どんどん忘却のかなたに消えていきつつある。それだけに、松下幸之助の志を忘れてはならないのだ。