今春の『青年塾』の入塾式が終わったあと、志ネットワークのメンバーは口々に、「今年は苦労されますな。これでは」と私の耳元で感想を述べて帰られた。それは、ほとんどの塾生が、「会社から命令されて入塾しました。私はここにしぶしぶ、いやいや来ました」と言ったからだ。口だけではない。その雰囲気が、行事の間中、全体を覆っていた。私も内心、今年は苦労しそうだなと直感した。入塾式のすべての儀式が終わったあとも、帰って行く塾生の背中には硬さが残っていた。事実、今年の研修の前半には、今までのような盛り上がりはなかった。不完全燃焼のまま、時が過ぎた。これも私のために与えられた成長の機会だととらえて、耐えた。
昨日、研修修了発表会を一日かけて行った。そこには、見違える姿が、目の前にあった。何よりも、運営する人たちの懸命な努力と、参加する人たちの真剣な心が一つになり、実に一体感のある盛り上がりが見られた。流れるように運営する、そんな私の思いも実現した。私が一言も命じることなく、すべてが私の思いのままに進められた。それは、私にとって、教育の理想である。理想が目の前で繰り広げられた。志ネットワークの会員の山内孝三郎さんが、「すっかり見違えました。皆さんの顔は生き生きと輝いています」と賛辞を送ってくれた。
一体感がないと、どうしてもイライラしてくる。イライラが高じてくると、ついつい口をついて、それをなじってしまう。なじると、ますますみんなの心が冷え、閉ざされていく。私のやり方は、とにかくみんなに主人公意識をもたせて、次々に自分たちが動かないと何も進まないような状況を作り出すことである。みんなで力をあわせなければ何も動かないような状況を次々に与え続けていくと、おのずと協力の意識、共同体意識が芽生えてくるようだ。今年も、どうやらその方法が功を奏したようである。私が立ち上がって何かを言うことは、まったくなかった。
発表も、すばらしいものであった。みんなが、「志の人」を探し出して、インタービューし、要領よくまとめていた。志を意識して、自分の周りを見直してみる。そんな私の思いが、汲み取られたようだ。有名人や肩書きのある人だけが、志を持つものではない。大なり小なり、人間は生きている限り、「何のために生きているのか」を考え、かなうものなら、「より良く、より高く、より誇り高く生きたい」と願うものだ。身近な人の中にそのような志の片鱗を見つけることができれば、それは自らの志を見つけていく大事なきっかけともなるはずである。